のんびりパート主婦日記 ときどき断捨離 ときどきアウトドア

ブランク10年で事務パートについたのんびり主婦の徒然日記

虐待の連鎖を断つには…追記 私の場合

日頃はついすっかり忘れているのだけれど、私が育ったところは機能不全家庭だった。

子供時代にそんな認識は無かったけれど、大人になり色々な情報が手に入るようになって、はじめて気付いたのだ。

父は地方公務員、母は看護師だけれど日祝の夕方から夜10時頃までのパートに大体週に一回行くほぼ専業主婦。子供は私と四歳差の妹との4人家族。家は私が誕生した年に建てたという、大きくも小さくもない普通の家。

ごくごく普通の家庭。一見すると… でも内実は違った。

父はちょっとした事がキッカケで怒り出し、そして母に暴力をふるった。殴る蹴るの暴行で母の身体はアザだらけだった。人にバレないよう服に隠れているところだけを狙ってきてズルいと母は言っていた。

母は母で未熟であった。21で結婚し22で私を産んでいる母は世間知らずで、家事も出来なかった。人の気持ちを推し量る能力が低いのか、時に人をグサリと傷つける言葉を平気で投げつけた。夫婦ゲンカが絶えず、家庭にはピリピリとした緊張感があった。母はよくヒステリーを起こしていた。

夫婦ゲンカの翌日だと思うが、父が仕事に行って居ない昼間、母は前の日の事を思い出し怒りが込み上げて来たのか、底の厚いウィスキーグラスを居間の窓に投げつけた。

物凄い音を立ててグラスは割れ、窓には大きなヒビが入り少し穴も開いていた。母は私達を連れ電車で2時間くらい離れた実家のある田舎へ。その後のことは記憶にない。

こういう事もあった。 夜なにか音が聞こえるので寝ている部屋から台所に行くと、台所の隅に母はしゃがんでうずくまり、泣きながらゴメンなさいと言っていた。父が包丁を突きつけて、母の前に立っていた。 その時私は、自分のせいだ。自分が悪いからだ、ととっさに思ってしまった…この後どう収束したのか、全く記憶にない。この時何歳だったんだろう。

とにかく、殺人事件は起きず、相変わらず両親不仲のまま時は過ぎて行った。

私の子供時代の母の料理はそれはひどいものだった。 まず、ご飯の固さが毎回違う。味噌汁の濃さも毎回違う。味噌汁は父が調整してくれていた。不器用で音痴で運動神経の無い母と違い、父は何でも器用で頭の回転も良く、スポーツ万能、それに彫りも深く鼻が高く美男で日本人離れしていた。難点は背がわりと低かったことと、育ちの悪さ。

母は田舎育ち。両親と他に4人のきょうだいがおり、貧しいながらも本人曰くまともな家庭で育った。一方、父は 親の愛情や家庭の温かさを知らずに育った。親が離婚と再婚を繰り返し、母親、も次々かわった。そして貧乏。もうどうしようもない貧乏と惨めさ。

母はよく言っていた。あれだけの素質があるんだから普通の家庭で育っていたらどれ程の人になれただろうと。

恵まれない生い立ちが本来の性格まで蝕んでしまった。普段は優しく真面目に働き、休みの日は家族であちこち出掛け、子煩悩で(母が言うには)、お酒も飲まず賭け事もやらず。ところが一度カッとなると歯止めがきかない。母への暴力へ。 他人へ暴力を振るいトラブルを起こした話は一切聞いた事がなかったので、ほんとに外へは漏れない家庭の秘密だった。

母親が何度もかわり、〇〇ちゃんごめんね、と泣きながら自分を置いて電車に乗って去って行った事を覚えいる、と父が話してくれたことがある。 今思えば、この母性からの見捨てられ感、とでもいうものが、その幼少期の体験が、女である母性である私の母への暴力になったんだろうか…

ともかく私が高校3年の時に不仲の夫婦に終止符が打たれた。協議離婚が成立したのである。私は育英の奨学金と母の姉と妹(どちらも独身の看護師)からの援助を貰い、自宅外の大学へ進学。充分な仕送りがあったのでバイトもせず、学生生活を謳歌した。

ほぼ専業主婦だった母は、止むを得ず社会に出た。結婚生活も離婚も人生の大きな痛手だったけれど、離婚のおかげで、働くため運転してあちこち行けるようになり、ガマンも身につき、外食の機会が増えたおかげで味覚が向上し料理が格段に上手くなった。

また、看護師の資格があった事も幸いした。人間関係ですぐ辞めてしまう母だったが、看護師の仕事はすぐ見つかる。

いろいろあったが、私たち姉妹は大学や短大に進学し、普通のOL生活を送り、普通に結婚それぞれ2人の子を持ち、のほほんと専業主婦として暮らしてきた。私の方は去年から働き出したが…

父とは、両親の離婚後音信不通だったのだが、自分の結婚に際しこのままでは一生後悔するかもしれないと、メールをしてみた。ウィスキーか何かのCMにあった『人は人を想う』何となくそんな感じがぴったりの心境で…

父と妹がひっそり連絡を取っていたのは知っていたので、メルアドを聞き出したのだった。妹は父と同じ市で暮らしているが、私は結婚で故郷を遠く離れている。10年以上ぶりに父と連絡を取り、再会出来たのはそれからまた時間が経って、離婚後15年ぶりとなっていた。

DVだった父の面影はなく、私の知っている父は45歳の姿だったのにもう還暦の、頭も少々薄くなったおじいちゃんになっていた。

それからさらに時間が経ち今では70過ぎの正真正銘の高齢者なのだが、今でもスポーツマンで、野球のピッチャーをやったり、絶叫コースターに平気で乗るなど、驚かされる。

父と再会し、一番驚き嬉しかったことは、父が再婚し円満な家庭を築いていたことだ。 男の子を欲しがっていた父だったがまたもや娘が2人産まれていた。

年賀状のやり取りで近況を知り、写真を見てどんな家庭が推察するだけだがそこにDVの影は見えない。

ほんとはあるよ、なら勘弁してくれ、だが… 私の母との結婚生活をとうに超える年月を次の伴侶と過ごしてきた父。暴力や貧困の連鎖を見事断ったのだ。ちなみにお相手も元の旦那さんがDV夫で離婚、12歳の男の子を連れての再婚同士だった。

父の私の結婚報告に際してのはなむけの言葉は、どうか自分達を反面教師としてほしい、というものだった。

大丈夫。ご安心を。お陰様で私も妹も夫婦円満に仲良く暮らしています。子供たちものびのび健やかに育っています。

ともすれば、破滅しそうな人生を、のんきな感じで生きて来られたのは、ひとえに経済的援助をしてくれた叔母たちと、わたしは無一文で40で突然社会にほっぽり出された、と今でも父を恨む母のおかげ。

そして私自身も、他の家庭を手本とするすべを身につけていたこと…

家族ぐるみで付き合いのあったある一家。そこのお父さんが奥さんの誕生日に、〇〇さん愛してるよ、と言って花束を渡したのだ。こういう夫婦でありたいと思った。自分の家がそうで無くても、学べることはできるらしい。手本となる何かを私は無意識に求めていたのかな…